ロシア舞踏公演「舞踏—大いなる魂」の現場より:11月19日

今日は舞台の仕込みとリハーサル。会場はリツェディ劇場。サンクトペテルブルグの繁華街のショッピングビル内にある。
9月に事前調査に訪れた際に、急遽、上演を決定した劇場で、日程を調整してもらって公演日を確保した。したがって、仕込みと公演日、各 1日しかとれなかった。日程的にモスクワにつなげねばならないツアーだけに、やむをえない。
数年前にできた新しい劇場とのこと。観客席が400席を少し超える中劇場というところ。舞踏をみてもらうにはまずまずの空間だ。
海外の初めての劇場では、いつもながら仕込みに苦労するが、今回とて例外ではない。劇場スタッフとのコミュニケーション、設備・機材の制約などで、とくに照明には問題が出る。その照明はベテランの曽我さんにお任せである。
通訳等、現地スタッフは、国際交流基金と在サンクトペテルブルグ総領事館がベーレグ社とのコラボレーションをもって手配してくれている。
今日の私の任務は、昼にラジオ局でのインタビュー、そのあと演劇学校でのレクチャーである。通訳をしてくれるゲルツェフさんと動く。劇場入りをした後、時間を見計らって、まずラジオ局に向かう。といって、何というラジオ局なのか、何という番組なのかもわからない。セッティングされたとおり に動くだけ。
地下鉄で行くことに。地下鉄は、最初にサンクトペテルブルグに来た時に、通訳として協力してくれた女性の活動の場でもあったギャラリーを訪問した時に利用し た。とにかく、地下深くエスカレーターで下った記憶がある。
劇場近くの地下鉄乗り場でチケットを買う。22ルーブルで安い。やはり深くもぐっていく。ネヴァ川の下を走るためというが、核戦争時のシェルターとしての機能を果たすためともいう。うなずける。
構内が薄暗いのと、地下鉄の利用者たちが一様に暗い、あるいは深刻な表情をしているようで、怖いというのでもないが、不安な感情にとらわれる。 ホームは、電車の出入り口部分だけが、車両のドアの開閉にしたがって開閉する構造。
したがって、電車が入ってこない間は、線路側は壁である。ゲルツェンさんは、上下に動くエレベーターが水平に動くようなものという。瞬間、どういうことかと理解できなかったが、すぐになるほどと納得する。といって、地下鉄すべてがこの構造ではなく、日本と同じ普通のスタイルの地下鉄もある。それが主かもしれない。
乗り換えの地下鉄駅はすごい。照明装置のデザインや壁面のレリーフなど、凝ったつくりである。社会主義時代や近代資本主義の効率主義や機能主義では到底、できないデザインである。
時間があるので、駅近くのホテルでお茶を飲む。私はもっぱら紅茶を飲んでいるが、現在のロシアではティー(チャイ)を頼むと、残念ながらどこへいってもティーバッグとお湯が入ったカップである。もっとも、劇場近くの尖った雰囲気のカフェでは、めずらしくティーバッグではなく、鉄瓶で紅茶がでてきた。これも日本への関心の表れか。
ロシアの紅茶というと、日本ではジャム入りのロシアンティーが知られているが、あれは幼児向けのお茶で、ジャムが添えられることはあっても、ジャム入りティーを飲むことはないとのこと。
ホテルを出て歩く。人影がまばらになってきて住宅街のよう。といって、ビル街だからオフィスがあってもいい。迷いながらラジオ局に到着。演劇学校の卒業生でロシアのダンス事情に詳しい女性が仲介者のようで、ラジオ局の前で待っていた。ラジオ局といっても、小さな規模のよう。すぐさまスタジオに入る。番組の司会者というか進行役でインタビューを行う女性がにこやかに迎えてくれる。

[ラジオ局で番組終了後。左がアナウンサー、右が通訳にあたっていただいたゲルツェフさん]

番組の説明をしてくれる。番組名は「アート・ランチ」。12時に始まる生番組とのこと。これから30分、舞踏についてインタビューをするからという。
はたして、舞踏がいかにButohであっても、お昼の生番組にふさわしいのかどうか。それは私が言うことではなく、舞踏の紹介、公演の宣伝に努めることが私の使命。一方、彼女も舞踏について少し勉強してきたとのこと。
ガラスの向こうのスタッフにキーを出して、番組が始まる。舞踏の歴史のアウトライン、といってもきわめて簡略に歴史を紹介し、舞踏の本質や思想に話題が移る。ここでも舞踏と仏教の関わりがあるのかないのかを問われる。もちろん、舞踏の発生や創造に仏教思想が関わっているわけではないし、土方自身も舞踏は宗教とは無縁であると言っている。
しかし、そう言ってしまうだけではあまりにソッけない。ラジオの向こうのロシアの人々にも納得していただく必要もあろう。そこで、日本の仏教の多くは小乗仏教で、社会的メッセージを発するというより個人の悟りや救いを追求することが主になっている。舞踏も人生とダンスをパラレルに考え、踊ることが生きることと捉え、舞踏家も踊りで人生を追求する姿勢をもつ人も多い。その意味では、禅宗の修行僧と似ているかもしれないなどと答える。
舞踏は「動く禅」と定義して平然としていることが、舞踏に関心を寄せる多くのヨーロッパの人たちを納得させることになるとわかってはいるが、まさかそうは言えない。
また、土方の舞踏と現在の舞踏は違っているのか、舞踏を始めたのは大野一雄と言われているが、大野一雄土方巽はどういう関係になるのかとか、舞踏がなぜヨーロッパやロシアで注目されていると思うか、ロシア人も舞踏を踊ることができるのか、といった質問がでる。
そして、今回の山本萌の公演「腹中のむし」について問われる。舞踏についてはともかく、作品については答えるのはむずかしい。
30分の番組が終わる。それにしても、舞踏の言葉がぎっしりと詰まった30分。昼休み時の番組に、これでいいのかと思わざるを得ない。どういう反応なのかと考えても始まらないので気にしないが、即興の受け応えの内容は気にしておいたほうがいいはず。
劇場に戻ってから、ベレーグ社のプレジデントのリュドミラさんがおもしろかったと言っていたとゲルツェフさんからうかがう。いささか安心。
司会の女性、通訳をしていただいたゲルツェフさんと記念写真を撮る。
ついで、演劇学校に向かう。歩いて行ける距離という。道すがら、案内の女性と話す。われわれの初めてのロシア公演はDEREVOとの共演というか、DEREVOの招きによるものであったという話から、DEREVOについて話す。
ロシア、とくにサンクトペテルブルグでは、DEREVOが舞踏を紹介した、DEREVOを通して、多くの人が舞踏を知ったという。DEREVOはドイツのドレスデンを本拠地とするカンパニーだが、主にロシア人によって構成されている。
とにかく発想が豊かで見ていて楽しい。女性も含めてスキンヘッドにして裸で踊り、一時期、舞踏寄りになったというが、決して舞踏ではない。しかし、1960年代の土方らの舞台を髣髴とさせる、暴力的というか、エネルギッシュな激しい動きで、ユーモアもありとんでもない仕掛けをもってくる。
日本でも二度、来日し公演を行っているが、残念なことに、日本では受け入れられなかった。たんに粗野なダンス集団と見做され、現在の日本のダンスファンに敬遠されたのかもしれない。
近年は、このDEREVOから出たダンサーたちが「動きの劇場」というのを行っているという。これが、ロシアでの実験的、前衛的なダンスの主流になっていて、ヨーロッパではButohに取って代わるというような意見も聞かされた。
学校近くのカフェで食事を。サリアンカを食する。日本でいえば、具沢山の味噌汁や豚汁? スープだが、これだけでお腹は満たされるし、なにより体があったまる。酸味がきいていて、おいしい。レストランごとに、当然味は違うので食べ比べている。
演劇学校、これも正確な名前は聞いていない。大通りをはさんで両側に校舎がある。どれも正面は工事中か化粧直し中で、工事用のシートに覆われて見ることはできない。
その一つのビルに入っていく。
前回、サンクトペテルブルグに来たときは、国立サンクトペテルブルグ大学にお邪魔した。そのときの教室の情景は記憶に生々しい。30〜40人も学生がいたろうか。私の舞踏についての話に大いに関心を示し、質問が相次ぎ、あげくは学生同士でやりあうのである。ロシア語なので皆目、わからないが、「お前の意見はおかしい」とか言っているのであろうかと思われたが。
ドクターコースでロシア演劇を学んでいた日本人も参加していた。レクチャーのあと、いつもあんな調子か、と訊くと頷いていた。
演劇学校はどうであろうか。期待が大で、不安が少し。この教室では、セルゲイさんが待っていて、ゲルツェフさんから通訳をバトンタッチ。ゲルツェフさんは終わった時には下で待っているという。お腹の突き出たセルゲイさんは、通訳というより、話すこと自体に余裕があり、私も安心して委ねる。
長髪を頭の後ろで束ねた緑色の服を着た早口の先生が、このクラスの担当らしい。ロシア語なまりなのかどうか、粘着性のある聞き取りにくい英語で話しかけてくる。
この時間のクラスは出席が義務ではないので、学生たちがどれだけくるのかわからない、と言っているよう。と言う間もなく、学生たちがどんどん教室に入ってくる。3人掛けの机があっという間に埋まっていく。3列で各列に10ばかりの机があったが、どれも3人で埋まっている。後から入ってきた先生と思しき人に席を勧めると、もう立っているしかない。
とにかく、狭い教室に人がぎっしりという感じで、人いきれがする。学生だけではなく、一般の方もチラホラいるよう。
土方の舞台写真のスライドを見せて、土方と舞踏の歴史でレクチャーを展開しようとパソコンにパワーポイントをセットしたが、この熱心な参加者の雰囲気を見て、より専門的に土方の舞踏のメソッドについて話すことに急遽、変更した。
これが失敗したというのでもないが、いかに演劇専攻の学生とはいえ、ダンスのメソッドやテクニックに及ぶ内容はむずかしかったよう。熱心に聞いていたし、質問も出たが、担当の先生に言わせると、やはり学生でしかないので、ということらしい。
おまけに、ダンスを専らにしている先生や一般の方が次々と手を挙げて質問される。最後には、かつて舞踏を見たことがある人が、その舞踏がどういうものであったとか、舞踏にいかに感動したかという話を学生たちに向かって話される。
そこで、担当の先生の要望で、時間の許す限り、土方の公演の記録映像を見てもらうことにした。これが刺激になって、明日の公演を見に劇場に足を運んでくれればいいのだが。
地下鉄に乗車し、リツェディ劇場に戻る。
すでに夕刻になっているが、仕込みはまだ終了していない。待つしかない。舞台の袖につづく控えのスペースで時間を過ごす。そうこうしていると、やたらにクラウンの姿が目につく。螺旋階段の上から、奥のスペースから、何人ものクラウンが行き来する。

[リツェデイ劇場のクラウンのリバボフさんと。サンクトペテルブルグでは著名な俳優。]

その中に、山本萌さんのワークショップに参加していた人がいた。特徴のある顔、というより萌さんに似ている。ワークショップでの彼の演技を一度見ると忘れられないほど、印象的だ。
この劇場と劇場に併設されているレストランシアターが、彼らの常設小屋ということがわかってきた。ポスターやチラシも目にするが、もしかしたらサンクトペテルブルグでは有名な俳優たちなのだろう。残念ながら、今回は彼らの舞台を見ることはできない。
時々、休憩にくる曽我さんは、いつものように淡々としたもの。その様子から、今日中には照明の仕込みも上がりそうと安心する。もっとも、出演する山本萌、白榊ケイ両人は、体は動かせても、舞台に立ってのリハーサルまでは無理でもどかしそう。
クラウンたちは化粧を落とし、衣裳を着替えて、三々五々引き上げてゆく。
世話係の基金の北川さんも、日中はやきもきしていたろうが、その頃には、先が見えてきて、推移を見るほかないと落ち着く。金沢舞踏館の制作の鈴木光子さんの明るさや音響の山本瑠衣さんの落ち着きぶりもツアーのあり方を心得てくれているかのよう。今夜遅くには、國吉和子さんもサンクトペテルブルグに到着する。これで、ツアーメンバーがそろう。
照明の仕込みは翌日にまでずれこまずに終えることができた。ごくろうさま。時間が遅いため、われわれを運んでくれるバスはなく、白タクに分乗して人気のないサンクトペテルブルグの深夜の街をホテルへ。白タクの運賃は交渉次第。400ルーブルでまとまる。
明日は、公演本番。